【緘黙】今さらながら個人競技の部活に入れば良かったのかもと思う

先日、ふと「集団競技ではなく個人競技の部活に入っておけば良かったかなあ」と思いました。中高生時代なんてもう10年も前なのですが、思い返すと部活がストレス源になっていたんですよね。

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僕が通っていた中学校・高校は入学時に部活に加入することが義務でした。各部を見学出来る期間(1-2週間程度)が設けられており、それが終わると各自何らかの部活に入部するという流れです。

僕は身体を動かすことが好きだったため、ほとんど迷わず運動部に加入。中学・高校共に運動部、それも集団競技のものに入りました。

しかし、当時の僕は場面緘黙真っ只中。

簡単な受け答えは出来たので授業や休み時間を乗り切ることは出来ましたが、部活動となると厳しいものがありました。

なぜなら、集団競技はコミュニケーションがものを言うからです。もちろん個々人の競技能力も大切ですが、その能力を発揮するためにはコミュニケーションが必要不可欠です。

試合中は当然ですが、普段の練習から、いや日々の学校生活から信頼関係を築くことが大切となってきます。

ところが、場面緘黙の僕にとってそれは非常に困難なことでした。

「おはよう」や「またね」と言えるようになったのが高校3年生の時。それ以外のコミュニケーション手段は「声が出ない笑顔・首振り・YES/NOで答えられる質問への返答・一単語」といったもの。

そのため、「普通」の人が難なくこなす練習中の声出しさえ僕にとっては必死にならざるを得ないものでした。基本的な声出し(決められた言葉)は日が経つにつれて慣れたものの、集団競技におけるコミュニケーションにおいては最低限も最低限です。

「もっとこうした方がいいんじゃないか」という提案、「もっとこうしてほしい」という要求、チームプレーにおいて大切なのはこういったコミュニケーションだと思いますが、当時の僕にそんなことは出来ませんでした。

そもそも、普段の学校生活からコミュニケーションを「普通」に取れなかった僕です。そんな状況で集団競技の部活を続けていると「劣等感・孤独感・無力感」といったものをよりいっそう強く感じてしまいました。

結局、中学・高校時代の部活両方とも精神的に参ってしまって幽霊部員化、高校時代のに関しては退部してしまいました。その競技自体はすごく好きだったのですが、どうしても「普通」の人と同じように話せないのがネックとなり、部活を続けられませんでした。

こんな経験をしていたので、「個人競技の部活に入っていたらどうなっていたんだろう」と思ってしまったのです。

もちろん、個人競技には個人競技の難しさがあるでしょう。決して一般的に個人競技より集団競技の方が大変だなんて言うつもりはありません。

しかし、あくまで場面緘黙という僕個人の問題から考えると、個人競技の方がコミュニケーション面で精神的な負担が少なかったのかもしれないなと思いました。個人競技の部活をやったことがないのでそんなことを言えるのかもしれませんが。

当然個人競技とはいっても、他の部員と同じ場所で練習します。お互いがライバルでありつつ、支えあうこともあるでしょう。個人競技ならコミュニケーションが大切ではないなんてことは一切ないはずですよね。

ただ、中学・高校と集団競技の部活しかやってこなかった(やろうとしなかった)ので、もし個人競技の部活に入っていたら違った景色が見えたのかもしれないな、と。

今回の記事では「中学・高校生時代における集団競技の部活」について書きましたが、他にも「集団で何かやる」系のものに入っては続けられなかったという経験をしています。

幼児期のグループ形式の音楽教室や、大学時代の音楽系サークルがそうです。音楽教室については年度が終わって更新しなかったのですが、音楽系サークルについてはやはり精神的に消耗してしまい、途中で辞めてしまいました。

このように同じことを何度も繰り返しているのです。

なぜ繰り返してしまったのかというと、おそらく僕の中に「集団」への執着があったためでしょう。話せないがゆえに「集団で何かすることへの憧れ」があったのだと思います。

しかし、現在は以前ほど「集団」への執着はありません。きっとうつ病となり仕事を辞めたからでしょう。

……話がだいぶそれてしまったので今回はこの辺で終わりにします。この執着については、また別の記事でいつか書いてみたいと思います。

それでは、また今度。