かんもくネット掲載のよくある「誤解」について僕の場合はどうだったか振り返ってみた

ちょっと記事タイトルが分かりにくかったかもしれませんね。この記事では「かんもくネット」のウェブサイトに掲載されている場面緘黙のよくある「誤解」について、僕がそういう誤解を受けた経験があるか、過去を振り返りながら書いていきたいと思います。

はじめに

はじめに「そもそもかんもくネットって何?」という方もいると思うので簡単に紹介しておきますね。

場面緘黙の情報交換や正しい理解の促進を目指している非営利の任意団体、それがかんもくネットです。これまで多くの講演会やワークショップを開いたり、緘黙に関する資料を公開したりと様々な啓蒙活動を行っています。

また、今年の2月には次の書籍を出版しました。

僕もつい先日買ってきました。

そうそう、Twitterでもつぶやいたのですが、この本が「新型うつ」のコーナーに置かれていたんですよ。確かに分類が難しいのかもしれませんが、緘黙の知名度の低さを実感した出来事でした。

よくある「誤解」

さて、そろそろ本題に入ろうかと思います!
かんもくネットのこちらのページにあった項目順に振り返っていきます。

大人しいだけ。ほっておいても、そのうちしゃべるようになる。

まずはこの項目に関してですが、特に前半の「大人しいだけ」というのは思われがちかもしれませんね。そしてここから派生した「大人しいのも個性」的な言説もまたあるように思えます。

僕は10年近く前にカウンセリングを受けたことがあるのですが、その際に学校で喋れないことを訴えたところ、まさにこの項目のようなことを言われました。

一言一句違わずとは流石にいきませんが、具体的には「思うように喋れないことで悩んじゃっているのかもしれないけど、それもまたひとつの個性だよ。大人しいのは何も悪いことじゃないよ。そのうち喋れるようになるよ。」ということをカウンセラーさんは言っていました。

実際に放っておいた結果、運よく日常生活で大きな不都合を被らない程度には話せるようになりましたが、それなりの年数を要してしまいました。

かんもくネットでも喚起していますが、本当は早い時期からの周りの理解と支援が大切です。

おかあさんの心配のしすぎでは?

喋れないことに対して母親が気にしすぎている、と保育園・幼稚園・学校から言われることがあるようですね。

うーん、この項目に関しては僕の家は当てはまらないような気がします。

実際のところはわかりませんが、僕に対する言動から判断すると決して心配はしていないように思えました。むしろ喋れない悩みを伝えると「喋ろうとしない○○(僕の名前)が悪い」と責められ続けましたね。

そのため親に理解してもらうことは途中から諦めました。

喋らないだけで、園や学校では問題ないですよ。

目につく問題を起こさないため、本人が話せなくて困っていても園や学校の人が見落としてしまうというわけですね。

これは僕も先生にそう思われていたんじゃないかなと思いますね。

まったく一言も発することが出来ないなら話も変わってくるでしょう。しかし、僕は授業中の教科書読みなどは問題なく出来たため、問題視されることなく「大人しい子」と見られていたのではないかと思います。

実際、僕の記憶では家庭訪問や通信簿等で「大人しい子」と言われたり書かれたりはしましたが、学校生活で問題があるということに関してはノータッチでした。というか、単純に先生に気付かれなかったのでしょう。

家庭の愛情不足なのでは?

虐待やネグレクトによって緘黙という症状が現れているのではないかという誤解ですが、それが原因で場面緘黙になるのはわずかだと言われているそうです。

場面緘黙になるのは明確に「コレ!」という理由は分かっておらず、様々な要因が合わさって発症すると考えられています。

まあ僕の場合は物心ついてからの記憶だと虐待もネグレクトもされていないので、それが理由だとは考えられないですね。

家庭で甘やかしすぎ、過保護なのでは?

上の項目と同じく場面緘黙になる理由への誤解ですね。

躾がなってない。

話しかけても返事をしないのは家庭での躾がなっていないからだ、とみなされてしまうことがあるようです。しかし、場面緘黙によって返事が出来ないのならば、これまた誤解になります。

ちなみに僕の場合は、そもそも「躾がなってない」とは思われなかったのではないかと思います。

元場面緘黙の僕が「小学校入学~卒業」をざっくりと振り返ってみた(1)等の記事で書いているように、親同士の付き合いがある近所の人とは比較的喋れていたためです。

わがままなだけ。

場所や状況、あるいは接する人によって喋れるかどうかが変わる点から、わがままだと思われがちです。

しかし、決してわがままによって話さないわけではありません。話せないのです。僕自身なぜ家では喋れるのに学校だと喋れなくなるのか分かりませんでしたし、今でも分かっていません。

わざと黙っている。

前の項目の「わざと黙っている。」に通じるところがあるかもしれませんが、意図的に喋らないでいるんだと誤解されることがあります。

この誤解は正直かなり受けました。一番じゃないですかね。学校の同級生や先生の一部、親からはそのように思われていたようです。

なまじ授業中は発言出来たため、休み時間に喋らない(実際は喋れない)僕は「わざと喋らない無口なやつ」と目に映ったのでしょう。「本当は喋れるんでしょ?なんで喋らないの?」というようなことは数えきれないほど言われました。

また、元場面緘黙の僕が「中学校入学~卒業」をざっくりと振り返ってみたでも少し触れましたが、先生の1人からは喋れないことで(良く言えば)イジり的なことをされました。

そして親からは上で書いたように「自分で喋らないでいるんでしょ。喋ろうとしないのが悪い。」と言われていました。

緘黙は内気なはず、あんな気が強い子は場面緘黙ではない。

喋れないことが主な症状であるため、そこから連想して性格も内気に違いないと思われがちなようです。しかし、当然ながら性格は十人十色です。

この誤解に関しては、もしかしたら親から受けていたかもしれません。家族に対しては気が強い側面もあったためです。

表情豊かなのだから、緘黙ではない。

これも上の項目と同じく性格は十人十色なので、こうは言い切れないですよね。
ちなみに僕は笑顔は作れましたが、基本表情は乏しく無表情が多かった気がします。

自分から友達の輪の中に入るよう努力すべき。

これも親や先生に言われましたね。しかし、本人がいくらその意志を持っていても難しいのが場面緘黙なのです。かんもくネットにもありますが、周りからの適切な支援が大切になってきます。

正直なところ、そんな支援を受けることが出来ていたら人生も変わったのかも、と思うととても悲しいです。

1人でぽつんといても平気そうだから、無視していい。

「あえて友達の輪に加わらないでいるんだから放っておこう」というわけですね。

しかし、「意図的に輪に加わらずに1人でいる」のと「本当は輪に加わりたいのにそれが出来ずに1人でいる」のとでは異なります。

まあ「普通」は輪に加わりたかったら意思表示をするのでしょうが、それをしない(実際は出来ない)ということは…と思われてしまうんでしょうね。

僕の場合は感情が表情に出なかったこともあり、1人でいることが多くても特に問題視されなかったのでしょう。

話すように言うべき。

これは「周りの人が本人に話すように言った方がよい」という誤解ですね。かんもくネットでも書かれているように、話すようにプレッシャーを与えると余計に悪化することがあります。

僕自身発話するようプレッシャーをかけられる(言った人はその意図はないのかもしれませんが)と、言葉が出ないどころか体も固まってしまい、緘動(かんどう)という症状が出てしまうことが多々ありました。

そうなると首を振ったりすることすら出来なくなり、相手が折れるまでその状態が続いてしまいました。

繰り返しになってしまいますが、話したいと思っても、話さないといけないと分かっていても話せないのが緘黙なのです。

うなづきや首振り、筆談を許していたら、甘やかしになる。

僕の場合、このようなことを思われていたらかなりつらかったことでしょう。

元場面緘黙の僕が「幼稚園入園~卒園」をざっくりと振り返ってみた等の記事で書いているように、あまり喋れない時期は頷いたり、首を振ったりして意思表示をしていたからです。

もしそれらが許さなれなかったとしたら、それこそ社会生活は不可能なものとなったに違いありません。

特別扱いしてはいけない。

場面緘黙の子には適切な支援が必要になるかと思いますが、それを特別扱いとみなす人がいるってことですかね。

家庭内の話なのか学校等での話なのかで変わってくるのでしょうが、ともかく場面緘黙であるならその子に対する配慮は大切だと思いますね。

少し喋れるんだから、場面緘黙ではない。

これで最後になりますが、場面緘黙は喋れないことが主な特徴であるため、少しでも喋れるならそれは場面緘黙ではない、という誤解ですね。

ある状況だと全く喋れなくなる人ももちろんいますが、僕のように授業中の教科書読みは出来るなんて人もいます。同じ場面緘黙でも症状の程度は画一的でなく、一人ひとりで異なるのです。

しかし、少しでも喋れる人の場合、ある状況で話せないと「わざと喋らない」と誤解されてしまい、「喋らないのではなく喋れないんだ」ということが理解されにくいのではないでしょうか。結果、適切な支援が受けられなくなることも考えられます。

実際、僕は周りの理解を得られず、支援もまた得られませんでした。

おわりに

さて、長くなってしまいましたがそろそろ終わりとなります。

今回この記事を書いたのには2つの意図がありました。1つは自分の過去を振り返って言語化したいということ。もう1つは、場面緘黙への理解を促したいということです。

すぐ上でも書きましたが、僕は場面緘黙に関する配慮や支援を受けられませんでした。

親には「喋ろうとせずに意図的に喋らないでいるのが悪い」と言われ、学校の先生には「問題を起こさないただ大人しい子」と思われ、カウンセリングを受ければ「大人しいのは悪いことではなくそれも個性だ」と言われるに終わりました。

周りに理解を求めるなんて甘えだ、なんて言う人も世の中にはいることでしょう。確かに支援を受けずになんとか出来る人もいると思います。僕も”運よく”社会生活を送れる程度には喋れるようになりました。

しかし、今なお喋れないことに悩みつつも見過ごされている人のことを考えると、とても心が痛みます。

この記事をここまで読んでくださった方は、きっと場面緘黙に興味を持っている方だと思います。

もし今後場面緘黙と思われる人に出会ったら、あるいは既にそういう人が近くにいたら、理解しようとする気持ちをほんの少しでも持っていただけると嬉しいです。