「意識が高い人」も「意識高い系な人」も両方羨ましく思う

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タイトルにあるように、僕は「意識が高い人」と「意識高い系な人」の両方を羨ましいなと思っています。それは、どちらも自分とは異なる特徴を持っているからです。

今では「意識高い系」という言葉が広い意味で使われるようになりましたよね。そのため、あらかじめ断っておこうと思うのですが、この記事では「意識高い系な人」を次の意味で捉えています。

「自分は世間から一目置かれている」とか「さらなる自分磨きに余念がない」といった雰囲気(意識の高さ)を言動の端々に匂わせているが、実際には大した実績や人脈があるわけではなく(全力で実現に取り組んでいるわけでもなく)、単に「周りからデキる奴と見られたい」ための自己アピールに過ぎない、といった傾向が顕著な者を揶揄した言い方。

意識高い系とは – 日本語表現辞典 Weblio辞書

意識が高い人

まず意識が高い人から。実際に自分の夢や目的に向かって全力で取り組んでいる人は、素直に羨ましく思えます。

自分の夢や目的がある点が羨ましい

僕はきっと意識が低い方に分類されるでしょう。「自分は意識低いから~」という逃げ的な意味で言っているわけではなく、本当に他人と比べたら意識が低いと思います。

これまでの人生で明確な夢や目的があったでしょうか。小さい頃、将来の夢を尋ねられるとお医者さんと答えていました。しかし、それは本当になりたかったわけではなく、そう答えると周りに褒められていたからなんですよね。

また、高校・大学と進学する中でも学校選びはなんとなくの雰囲気で選びましたし、部活動なんかも好きだからという理由だけで選びました。その勉強や課外活動を通してこうしたい・こうなりたいというものも皆無だったのです。

それは就職の際も同じで、この仕事を通してこれを実現したい、あるいは自分がこういう人間になりたいという願望・理想はありませんでした。そのため、履歴書やESで最も困った項目が志望動機です。何をやりたいのか、どうなりたいのか、自分でも分かりませんからね。

全力で取り組める点が羨ましい

「意識が高い人」は夢や目標に向かって邁進することができます。そこがとても羨ましいです。僕は全力で何かに取り組めた経験がありません。勉強・習い事・部活・仕事、全部そう。

もちろん、真面目に取り組もうとはするんですよ。しかし、「全力で」というワードが付くと疑問符が生じます。「どうせ自分なんかがやっても…」という考えが頭の中にあり、ブレーキをかけてしまうのです。アクセルがアレな可能性も否めませんが。

また、自分の人生に当事者意識を持って生きられていない感じもしています。

意識高い系な人

世間から揶揄される「意識高い系な人」ではありますが、僕には持っていないものを持っていて羨ましく感じます。

自己アピールできる点が羨ましい

アピールが過ぎて周りにうんざりされてしまうのが「意識高い系な人」の特徴かもしれませんが、アピールできるだけ僕はすごいと思います。決して馬鹿にしているわけではありません。

僕は昔から自分をアピールできるような性格ではなくて、本当に目立たない、そこにいるのかいないのか分からない感じの人間なんですよ。他人の注目を集めたくないという気持ちもありましてね、まあそれは他人にどう思われるのかを怖がっているからだと思います。

しかし、「意識高い系な人」はどうでしょう。その仕方や程度はさておき、自分の考えていることをバンバン他人に分かる形で表現します。まるで一切の躊躇もないように。そんなこと、ぼくにはとてもできません。

「意識高い系な人」は自己肯定力が高いからできるのでしょうね。アピールした結果、他人からどのように思われても気にしない感じなのでしょう。仮に批判めいたことを言われたとしても、それに臆せず反論するようなイメージです。

他人にどう思われるか怖くてアピールできず、「何を考えているのか分からなくて怖い」と言われるような僕にとっては、それだけオープンでいられるのは本当にすごいと思います。

おわりに

ここまで書いてきたように、「意識高い人」も、一般的には馬鹿にされがちな「意識高い系な人」も、僕にとっては魅力的な面があって羨ましいのです。

正直見習いたいのですが、小さい頃から変わらないから難しいでしょうね。……こういうことを言うのがよくないのかもしれませんね。気を付けます。

それでは。